マイペース
今日はヤンシナ締切日だった。出そうと思っていたけれど、出せなかった。(まだ締め切りまでは数時間あるけれども、サブスクのワードが重すぎて動かなくなってしまったのでどうあがいても間に合わない、ウケる(ウケない))
そもそも出そうと思えるレベルまで何もかも到達していなかったが、なぜか出そうと思っていた。謎い。
大量にメモ書きが増えたものの、結局これを形にすることができなかった。悔しい。来年、2作出そうと思う。
感情を言語化する脚本をかけるようになりたいのに、いま抱えている感情があまりにも大量すぎて、全然処理できていない。体の感覚もよくわからなくてここ数週間全く食べないか暴食をするかのわけわからん感じになっている。今年、どう考えても体調だけは安定を手に入れたい。感情の器であるところのフィジカルがしっかりしていないと、おそらく感情に体調が左右される。この半年完全にそんな感じだった。メンタルに負けないフィジカルを手に入れるぞ!(なんの話?)
悔しいなあという感情とか、苦しいなあという気持ちを抱くのがここ数年あまりなくてなんだか不思議な気持ちになったので、記録として久しぶりにブログを書いた。悔しかったり、苦しかったりするときは体調に出るタイプなのかもしれない。新年度になりますので、体調に影響を及ぼさないようにしたい。げき重ワードの後にこのアプリ開くとサクサクタイピングできてめちゃくちゃウケちゃうな。
なんというか(なんとも言えないわけだが)アシタカが片腕の暴走を止められないシーンあるじゃないですか。ああいう感じで感情がめちゃくちゃになってパニクった。数日前までは何とかするぞと思っていたんだけどな…。
作品を書こうとしていたからここ数ヶ月はずっと頭がフル回転で感情だけははちゃめちゃ状態だった。脳が休まる時間がなかった。まじで。仕事するかシナリオ書くか推しに狂うか寝るかだった。しかも今回に関してはシナリオをまともに形にもできなかったから脳みそに言葉だの感情だのが溢れまくりーの状態である。これどないすんねん!!!
コンクール関係なしに一度いま書きかけた作品を形にしてみようと思います。とりあえず。感情がめちゃくちゃなので。(?)
無秩序に感情を書き殴っていてごめんなさいまた話が変わりますが、今日久しぶりにブログを読み返したら結構ウケちゃった。その時その時考えていることがやっぱり脳で考えたまま指先に伝わっているので、人が見たときにどう思うかはさておき自分が読み返すと、おおなるほどそんなことがあったのねえ、と思える。少しだけブログを書くモチベーションが上がった。(続くとは言っていない)
なので今日も今日とて今日思ったことを書いておきます。ここまで1000字近くすでに書いていますが・・・。
これは大学受験で浪人した時からずっと思っていることだが、わたしはやっぱり「みんなで」何かをすることがどうしようもなく苦手である。勉強も友達とやったりするのが苦痛だった。(から一人で自習室に篭ったりしていた)他人のペースがわかると自分の方がペースが良かろうが精度が高かろうがなんだろうが、何故かソワソワしてしまうのだ。兎にも角にも自分のペースの他に別のビートが聞こえてくると(?)自分のペースが乱れてしまう。自分のペースが乱れるとそもそもそれほど高くないパフォーマンス能力が著しく低下する自覚もある。
わたしは夏からまたシナリオの教室に通おうかと思っているところなのだが、上記のような自分の癖を考えると、自分のペースで作品を書いていった方がいいのか迷ったりもする。正解がないものなので余計に。
ただ、自分だけでやる場合はどう考えてもチャンスが減るということだけがネックである。
先生からアドバイスがもらえるのではー?とも半年前なら思っていたと思うが、先生ははちゃめちゃに優しいことが基礎科に通ってみてわかったので個人的にはあまり効果がない。褒めて伸ばそう精神で育ててくださるので大変ありがたいお話なのだがわたしのような天邪鬼はお褒めの言葉を頂いてもぜんぜん嬉しいと思わないのである。そういう思考回路を持っている人間はそもそも創作に向かないのか?うるせえはげ!誰がハゲじゃ!
?
公募ガイドを細かくチェックして作品をコンスタントに応募するようにしよかなあ。数週間開けて自分で読み直すだけでも、気持ち悪っ!と思ったりするので。というか半年でこれだけのことが分かっただけでもかなり収穫だな。本当にいい半年間だったな。少なくともこれから3ヶ月間はインプットに専念すると決めているので、もう少し考えてみよう。
あとそもそもコンクールに応募してみたい!と思って通い始めたスクールだったのに、半年後結構応募できそうな感じになったのマジですごい。(してないけど)
そして仕事をしながら、推しごとをしながらの創作ってはちゃめちゃ体力を必要とすることもわかった。それがわかったこともかなり収穫か。ガッポガッポじゃん。これまで知らなかったことをたくさん知ることができた半年かもしれない。
コンクールに出せるようになりたいと思って始めたのに、通ってるうちに楽しすぎて、永遠に向き合ってたいと思えてしまったの本当にすごい変化だと思う。さっきからすごいすごいしか言ってないな、語彙・・・・・。
いつものように感情と思考の羅列で何一つまとまりがありませんが3月中に宮舘涼太さんのお誕生日noteを書くって決めてるんで自分のことはもうこの辺で終わりにしますじゃあね。
あーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!ぜったい来年はヤンシナ二つ出すーーーーーーーーーー!!!!!!!(うるさオタク)
まとまった考えだとか意見だとかそういうものがない
ブログ、書くようにしてるんだけどなかなか続けるのが難しい。
紙に書くよりも書きやすいから(脳みそとのタイムラグが少ないので)ブログを書いておくことにしたんだけど、Twitterは死ぬほどなるくせにまとまった量の文章を書こうとするとはあどっこいしょと腰を据えなければいけなくて、なかなかはてなブログのアイコンを開かない。
何も考えない日を減らすぞ〜と思ってブログを改めたわけだが、ブログを書いていない日は何も考えていないのか?と思うとそういうわけでもない。
いまだって通勤電車の中目の前で朝ごはんをがっつり食べてメイクを始めたお姉さんが全然マスクしないから不安で不安で仕方ないし(お前が移動しろ)、そんなお姉さんが高級なブランドのポーチと鏡を持ってギラギラの結婚指輪をしているあたりも胃の奥がムカムカする。
と、たぶんこの上の文章が140字にも満たないのかな?と思う。Twitterに書くのはなあと思うことは瞬間日記に書いているので、まあこの文章は瞬間日記向きであるが、だいたいその辺で収まってしまう。
140字程度で表せる程度のことしか考えてないのだ。
そう思う理由だとかそのお姉さんの立場になってみるだとか、このケースに関して言えばだけどそういうもう一歩踏み込んで考えてみる、想像してみるという癖がないのかもしれない。
考えたところでどうなるんだという話なのだが、それはこのお姉さんの話だからそんな感じになってしまうのであってそれ以外のニュースだったり世の中の出来事に対してもだいたい140字で収まる程度までしか考えていないのだ。浅すぎる。そしてお姉さんはマスクをしなさすぎる。せめてしてくれ。
持病やその人の置かれた状況があるのは承知しているのだが、その行為がいま他人を不安にさせるという事態を理解してそれなりの対応はすべきだと思う。全員同じ条件下で生きてる人間なのだ。マスクをしないという行為そのものが怖いというより、こういう状況下で普通にマスクをしなくていいということはそういう考え方なわけで、それが滲み出ていることが怖い。人の意思、思考がわかることがわたしは怖い。基本的に。
そんなんが自分の考えていることを記録するためにブログ書いているわけだから、このブログは破綻している。人生は破綻。(?)
推しのこと以外もちゃんと脳みそを使ってもうすこし「考える」という作業を増やそう。
あとお姉さんマスクしてくれ〜コンビニでそのサンドイッチを買った時にマスクも買えたでしょうよ〜頼むよ〜。
とほほ
人のフリみてなんちゃらができないからいつまで経ってもこんなん
Twitter、荒れ放題である。Twitterはすぐに荒れる。Twitter、Twitterじゃなくて荒野行動とかに名前変えた方がいい気がする。
意見を呟いてる人の何割が記事をクリックして読んだんだろう、とふと思う。
記事を読んで少し考えてみたら、あの偉い人の発言はまあ言葉選びを失敗したな感はあるけどそこまで怒りに震えるような内容じゃないように思う。というか、世の中、他人に期待しすぎでは?すごいな、と思う。みんな希望を捨ててなくて偉いな。すぐみんなとか言ってすみません……。
ハッシュタグでTwitterを見ない、を心がけているけどやっぱり怖いもの見たさで見てしまう。
ここぞとばかりに言いたい放題である。Twitter、ストレス発散の道具にされていてかわいそう。青い鳥も泣いていることだろう。鳥は白か。どっちでもええ、そんなことを言っているから偉い人が「女は話が長い」なんて言ってましたよ!とマスコミが切り取ってしまうのだ。日頃の行いから改めなければならない。
それはそうと、凄まじい勢いで流れるハッシュタグが書かれたツイートを見ると、完全自己矛盾ドリーマーが数多くいてまたしてもウケてしまう。
この世代の人は〜とか、おじいさんは〜とか、そういう括りで言葉を使っている時点であなたが怒っている対象とやってること何も変わらない。そしてそれに気づいていなさそうなのがやばい。だから偉い人もそうなのだ。自分のヤバさに自分は気付かないのだ。自分だから。
人間どうやったって、自分が過ごしてきた環境や経てきた経験からしか物事が判断できない。どう足掻いても限界があるし、なんでもわかる、なんていうのは大嘘に決まっている。自分以外のことはわからないのだ。そこは諦めるしかない。だからたくさんの経験があるに越したことはない。
その限界を自覚した上で、じゃあ自分が過ごしてこなかった環境、経験の人はどう思うか?を慮る力を身につけていかないといけないなと思う。だからこそたくさんの人と出会うことは意義深い。
わたしは記事を読んで、あの偉い人は伝聞的な表現したところを切り取られちゃっていたけど、自分の実際の経験から来ている事実としての女性も話していたので、言い方間違えすぎじゃんウケる、と思った。それこそ流石に経験値はある人だと思うので、その辺はうまくやってくださいとしか言えない。
不器用なのかな?(???)経験を踏んでいながらそれが活かせていない、という意味での能力がないのに偉い人やっている点においては少し不安だなあ……と思った。
ただ、わたしは頭ごなしに偉い人の価値観をぶっ潰すような言葉を使う権利はないと思った。自分も年齢や性別だけではなく、なにかしらバイアスをかけて人を見てしまっている気がするからだ。
プラスっぽく思える時だけ都合良く許容する、というのは個人的には好きではない。ニュートラルでいようと心がけてはいるけど、これがなかなか難しい。そのことに改めて気づくことができた。
人のフリみて我がフリ直すのはなかなか難しい。でも人のフリが目に飛び込んできやすい時代ではあるので、少しずつでも直すのを諦めないようにしたいと思う。
2月も1日だというのに〜
2月に入ったというのに、なんだか今ひとつ不調である。
ずっと不調じゃねえか!体調はすこぶる元気ですが。(こうやって書いておかないと大変なことになるご時世はよ過ぎ去ってくれ)
いまいち調子が悪いなあ、というときの回復方法がいまだに掴めない。
前の会社にいたときすごく良くしてくれた先輩が、「人生調子が悪い日の方が多いんだから、そういう日をどうやって乗り切っていくかが経験とか言われるやつなんだと思うよ」と言っていたのを思い出す。今社会人4年生終盤。そう考えると義務教育も終わっていないような期間なので、経験とかそんなたいそれたことを言えてしまう方がおかしいのかもしれない。それくらいに気軽に捉えておこう。ちゃんとやるこたやってるわけだし。
昨日はラーメン屋に寄ってどかどか食べてしまい、今日も今日で意味のわからない量の恵方巻きを買ってバクバク食べてしまった。
何かを埋め合わせるための代償行為として大食いをやめたい。以前よりだいぶマシではあるけれども。
しかも食べた後、うぐぐ、、、となってしまうから余計に。でも昨日と今日のご飯は最高に美味しかったです。人が作ってくれたご飯は世界一うまい。ただ来年から恵方巻きはセブンの小さいやつだけで大丈夫です。(来年の自分への伝言)
今日はなんとしてでも溜めてしまっている課題を書き切るぞ。
書き切らなければならぬ!!!!!!!!書き切るぞ!!!!!!
基礎体力
1月が終わる。
メモに残してあったことを怒涛のように書き起こして昨日はずっと推しのことしか考えていなかったので(?)
やっと今日に追いついた。2月は溜めずに書くぞ。
あっという間だった。このペースで2月以降も過ぎていくとしたらおよよ?という間に2021年が終わる(確信)
やばい。
去年から、新しいことをはじめた。夢?もできた。
学生の頃は、できないことがたくさんあっても、なんか知らんけどできるようになるまでやっていた。何を言われてもめげなかったし無理と言われても時間をかけて力づくでなんとかしてきていた。今考えてみると、それは自分がやりたいことだったからだと思う。自分には不釣り合いな高校だの大学だのを目指したのは、他がどうこうではなくて、ただ「この学校に行きたい」という自分の意志がはっきりしていたからだ。
大学生のちょうど就活を受け始めた頃、これまではなんでもできるようになるまでやっていたのに、なんでかそれをやめてしまった。自分が無理なくできることを仕事にしよう、そう思った。
そうやって選んだつもりだった仕事は、想像以上に厳しくて(自分の運が悪かったのもあるけれども運も実力のうちなので仕方ない)、わたしは自分が無理なくできると思っていた仕事を辞めた。
シンプルに精神をやられて体に支障をきたしていたので、去年一年間はほぼ生活のリセットみたいな気持ちで過ごしていた。
そうして自分の好きなことをしている間に、大学生のときふと考えることをやめてしまった、やりたいことが見つかった。まだ全然趣味の範疇を出ないけれども、続けていつか仕事にしたいと思ってさえいる。それくらいはっきりした気持ちが今更になってようやく芽生えた。
だから今年は去年見つけたその自分の気持ちを、周りにやんや言われようと大切にして、時間がかかっても力づくでもなんとかしたいと思う。そのための体力をつける一年にしたい。
去年もう一つ個人的にめちゃくちゃでかい事件があって、とんでもない推しを見つけてしまった。SnowManの佐久間大介さん。(ここでもうるせえオタクをするオタク)
最初はそのえげつないパフォーマンス力と明るい笑顔とばかでかい大声(褒めてる)に惹かれたわけだが、物事への考え方が本当に尊敬できる。(激重オタク発動)
去年雑誌のインタビューで、自分が今後チャレンジしていきたい声優の仕事について、こんなことを言っていた。
今は、基礎力も、経験も、実績もない。基礎を身につけて経験と実績を積んでいかないと不安は無くならないから、小さなチャンスも逃さずに、地道に場数を踏んでいきたい。(POTATO2021年1月号)
このインタビュー記事を初めて読んだとき、自分の将来について悩んでいたことも相まって、夜中布団の中で泣いてしまった。すぐ泣くオタクをやめたいです。
冗談はどうでもいいのだが、こういう考え方を常に持っているから今の彼の目覚ましい活躍があるわけで、それこそ私が惹かれたえげつないパフォーマンス力の高さは彼の地道な努力の賜物に他ならないのだと思う。もちろん天からのギフトとしての能力も多分にあるとは思うのだけれども、それを大きな花として咲かせるために(才能を持っている人でさえ)これだけの忍耐と努力を乗り越えているのだ。
わたしにはこれといった才能がない。これはガチガチのガチ。その上不器用なので、人と同じことができるようになるために、人の倍時間がかかる。だから人の4倍くらいは頑張らないといけないなと思う。とんでもなく時間がかかるだろうし、すぐに結果は出ないだろう。でも久しぶりにはっきり輪郭が見えた自分の気持ちだから、絶対に結果が出るまで続けたいと思う。
まずは大学くらいからゆるゆるになってしまった基礎体力を付け直すことから始めます。
なんかやっぱり文字を書くのはいい。背筋がしゃんとする。
とっても頑張れそうな気持ちになってきた。ずっと気づかなかったけど、誰にも何も言われなくても、自分で自分の応援ができるのが、わたしの強みだったのかもしれない。だから自分が自分を諦めちゃった大学時代、ゴロゴロと崩れてしまったのかも。せめて自分のことくらい自分は信じてあげような。今、がんばれがんばれ!と素直に自分を応援してあげれている。自分くらい、自分を応援してあげてもいいのだ。そうだよな。
おし!推しのキュートなお写真に見守られながら課題頑張ります。(?)
平成生まれ
平成生まれ、昭和生まれ、令和生まれ、とかいうの本当にもうやめたら〜?と思う。
わ!一緒ー!という意味で使うなら気持ちも前向きだしいいけど、往々にしてお互いがお互いの世代に(令和生まれはまだしゃべれないだろうけども)いちゃもんをつけるために使われる様子ばかり目につく。なんでこうもまあ人間というものはお互いをカテゴリー化して優劣をつけたがるのか。意味が不明の助。やっぱり人間が生きている限り戦争は無くならないんだろうと思う。大袈裟かしら。いや大袈裟でもないじゃろ。
びっくりするくらいのサンプル数の少なさで、あっという間に人は人をカテゴライズする。
よくて2人、なんならたった1人の平成生まれに接して感じたことを平成の約30年間の間に生まれた人間全員に当てはめて当たり前のように話す人もいる。とんでもねえ論理の飛躍である。怖いよぼかあ。
というか、そもそももういい加減カテゴライズという作業をやめた方がいい。意味がないのだ。
マーケティングに使うとか、数字的な意味が必要な場合はちゃんとした統計学の算出方法があるのでそれに基づいて数字を出せばいい。それ以外の、日常に染み付いてしまっているカテゴリー化作業はまじで意味がないからもうやめた方がいい。目の前にいるAさんはAさんでしかない。そうやって目の前の人と向き合えばカテゴライズなんて失礼なことできないはずだ。
とか言っても他人を変えるのは無理だということは重々承知しているので、せめて自分はそういう気持ちを忘れずに今後も過ごしていきたいです。
坂道に光る
坂を下って家路に着くのだが、
この日はなんだか妙に地面がキラキラしていて気味が悪かった。
キラキラしているものは割と好きなのに、いつもキラキラしていない、ましてやキラキラするはずのないコンクリートがキラキラしているのがやけに気味が悪かった。
よく見たら、パチンコ玉だった。
紙パックの飲み物のゴミと、パチンコ玉が散らばっていて、なんだか不安定な気持ちになった。
最初パチンコ玉かどうかわからなくて、興味本位で一個軽く足で転がしてみた。
コロコロコロ〜と転がっていった。
転がった先から自動車がヘッドライトを煌々と光らせて走ってきて、一瞬足がすくんだ。
強い光に照らされて、とてつもなく悪いことをしたような気がした。
翌朝もまだその坂にパチンコ玉は散らばっていたけど、夕方にはもうなくなっていた。
紙パックもパチンコ玉もなくなっていた。
パチンコ玉をばら撒いた人も紙パックをぐしゃっと潰して捨てた人もいなくなったような気がして、ちょっと怖かった。